<!-- pages: part1 37-43 --> # 10章 自分は人より上等か下等か (第2部 わたしたちを縛る嘘 の冒頭章。第2部の扉は p37) ## 中心主張 慢性の自己欺瞞は二通りの形を取る ── 自分を他の人びとより「上等」と見るか、「下等」と見るか。表向きこの二つは正反対に見えるが、どちらも同じダイナミズムを支えている。どちらの場合も箱に入って内向きになり、自分だけに焦点を当て続けることになる。そしてどちらも、他者を助ける気を消す。この慢性の自己欺瞞を見つける一番簡単な方法は、それについて回る感情に注意を払うことである。 ## 論の展開 - テオが第1部の整理から始める ── 自己欺瞞に陥っていなければ、他の人びとを的確に見ることができる。相手にも欲や抱負や恐れや人間関係があり、それらが自分のものと同じように実体のあるリアルなものだと理解し、それに応えようとする。 - ところが箱に入ると、他の人びとを大きく違う三つの意味で "物" と見なす ── 自分が欲しいものを得るための道具、自分の行く手を阻む障害物、自分とはまったく無関係な物。 - "物" 扱いは、虐待やネグレクトといった苛烈な状況で現れるだけでなく、もっとわかりにくい形でも現れる ── スーパーのレジ係を食べ物をスキャンするロボットのように扱ったり、心にもないおべっかで誰かにへつらったり。これらはまったく別の例に見えるが、根っこにはすべて人を "人" と見ずに "物" と見なす姿勢がある。 - トムが反発する ── 「スーパーのレジに並んで会計をしているだけなのに、相手を "物" と見なしているというのは、ちょっときつすぎませんか?」。ケイトが「あなたは、接客をした経験があるかしら?」と問い返す。 - トムの答え ── 父が小さな店を持っていてカレッジに進む前はそこで働いていたが、たいていはバックヤードの仕事だった。 - アナの答え ── 高校時代にレストランのホール係をやった。「経験したなかでは、最高で最悪の仕事でした」。いろいろな人を観察するのは楽しく、常連さんのなかには知り合えてよかったと思える人もいた。でも、客のなかには失礼で不適切なことをいう人もいた。最初はマネージャーやホール係のリーダーに訴えたが、「そういうものなんだから。有り難いと思ってチップを頂戴しておけばいいんだよ」みたいなことをいわれるばかりだった。 - アナの現在への接続 ── 「ちょうど娘が給仕係のアルバイトに応募したところなんですが、あの子がそんな目に遭うなんて、まっぴらごめんだな」。 - ケイトの断定 ── 「職場で差別やハラスメントにあって当然という人はどこにもいないし、それをいえば、どんな場面であろうと、そんなことは許されません」。そして「そういう不当な扱いの根っこには、必ず相手を "物" と見なす姿勢があるものなの」。 - ここで急性/慢性の区別が導入される ── 自己欺瞞の「発作」を起こす場合は、ある種の状況において明確な自分への裏切りによって他の人びとを見る目が歪む。ところが自己欺瞞は慢性的なものにもなり得る。その強さや程度は当然いろいろだが、そういうことが起きる。 - 慢性の自己欺瞞は二通りの形を取る ── 自分自身を他の人びとより上等と考えるか、下等と考えるか。「他の人びとは自分自身と同様に尊重すべきである」といえばごく単純に聞こえるが、自分を上等だの下等だのと見るようになると、相手を "物" と見なす姿勢が生じる。 - テオの上等パターンの自己分析 ── 妻に対して内向きになっていたとき、自分が彼女より上等だと思うことで自分を正当化していた。翌日には重要なことをしなければならず、自分の仕事は家族にとっても重要なんだから、明らかに自分の睡眠は妻の睡眠よりも優先されるべきだ。自分にはいっさい睡眠を邪魔されない権利があって、それを行使できないのは妻が悪いからで、でも妻にはそんなことをする権利はないはずだ! と感じ始めた。 - 下等パターンへの反転実験 ── 「この筋書きを変えたとしても ── 自分を妻より劣った人間だと見なしたとしても ── わたしはいとも簡単に自分を正当化することができた」。アナ「あなたは、自分は赤ん坊の世話がじょうずでない、と思われたかもしれませんね。それか、何をしたらいいかわからない、とか。自分が面倒を見ようとしたら、ますますややこしいことになるんじゃないかと不安だった?」 トム「どっちにしても奥さんが起きなきゃいけないのなら、自分が起きる必要はないだろ、とか」「奥さんはすべてを完璧にできるんだから、きっとそのことを自分に見せつけるだろう、と」。図5が完成する。 - 見出し「慢性の自己欺瞞に気づくには」── テオの核心的整理: 表向きこの二つの状況は異なっているが、他の人より上等な人間だと思うことと下等な人間だと思うことは、実は同じダイナミズムを支えている。どちらの場合も箱に入って内向きになり、自分だけに焦点を当て続けることになる。どちらも自分自身を裏切ったときの正当化のための嘘として使える。どちらの視線も歪んでいて、そのため別の状況に入り込み、いわば慢性の自己欺瞞に陥る。 - アナの確認 ── 「その『慢性の自己欺瞞』というのは、厳密には何なのですか?」 テオ「己の『自分への裏切り』を正当化するのに使えるような偽の自己像を持ち歩く、ということだ」。新しい状況にも自分が他の人より上等だの下等だのという嘘を持ち込み、その誤った自己像のせいで周囲の人びとを的確に見られなくなる。 - ケイトの帰結 ── 「そしてそれはつまり、彼らを助けようという感覚を持てなくなる、ということなの。彼らを "人" として見ることができなくなる。なぜなら彼らとのやりとりに、こちらがはじめから嘘を持ち込んでいるから。自分より劣っていると思っている人間を助けるために、どうしてわざわざ身をかがめなければならないのか。あるいは逆に、相手が自分より上等な人たちだと思い込んでいると、そんな人びとに提供できるものなど自分には何もないと考えてしまう」。 - トムの気づき ── 「うへ」と声を漏らす。「これはつまり、わたしがピエールを助けようという気にならなかったのは、すでにわたしが彼に対して箱に入っていたからだ、ということなんですね」。 - テオの応答 ── 「君自身の経験の解釈は、ご本人にまかせるとして……君のエピソードに自己欺瞞が絡んでいたとしても、決して驚くにはあたらない。さっきの話では、君はピエールが失敗するのを喜んでいたようだったからね。たとえそのせいで、自分のプロジェクトが損害を被ったとしても……」。トムは口を開いたものの、出てきたのはため息だった。「今になって振り返ると、筋が通っていなかったような気もします。ピエールが凋落するのを黙って見ていたせいで、プロジェクトはひどいことになりましたから」。 - ケイトの補足 ── わたしたちそれぞれに、人との関係や状況次第で、自分は人より上等だとか下等だと見なす傾向がある。でも、それはどちらも嘘。ある技能に関しては他の人より優れていたり劣っていたりするけれど、だからといって人間としての価値に上下があるわけではない。それに、自己欺瞞に目を曇らされていないときのほうが、はるかに正確に人の能力を評価することができる。 - 検出法 ── 「こういった慢性の自己欺瞞を見つける一番簡単な方法は、通常それについて回る感情に注意を払うことなんだ」。テオがボードに「より上等」「より下等」の二つの四角を書き、それぞれに伴う感情を書き込む(図6)。 - トムの実例 ── 高校の頃、友達の母親が亡くなったが、なんと言葉を掛けていいのかわからず、すっかり気後れして何もいわなかった。「自分が何かいってもかえって友達を傷つけるだけだ」と自分に言い聞かせて。「あのときは、自分のことしか考えていなくて、自分は人より下等だと思っていたんでしょうね」。テオ「実例を挙げてくれて、ありがとう。自分が行った正当化を理解して認めるというのは、必ずしも簡単なことではないから」。 - 章の終わり ── ランチの時間になる。ケイトがトムとアナに「君たちお二人がザグラム社というチームに加わってくれて、本当によかった」と伝える。全員が席を立ったところで、ケイトがトムのほうに振り向いた ── 「ちょっと話があるんだけれど、いいかしら」(11章へ)。 ## 実践指針 - 他者を的確に見たい場面では、相手の欲・抱負・恐れ・人間関係が、自分のものと同じように実体のあるリアルなものだと理解し、それに応えようとせよ。 - 日常の接触(レジ、受付、給仕)の場面では、相手を機能としてだけ扱っていないか点検せよ。"物" 扱いは苛烈な状況だけでなく、こうした場面にこそ現れる。 - 心にもないおべっかで誰かにへつらう場面では、それも相手を "物" と見なす姿勢の一形態だと知れ。 - 差別やハラスメントを目撃した場面では、その根っこに相手を "物" と見なす姿勢があると認識し、「そういうものだから」で処理するな。 - 部下や同僚がハラスメントを訴えてきた場面では、「有り難いと思っておけばいい」式の受け流しをするな。訴えを不当な扱いとして扱え。 - 自分の権利や重要性を主張したくなる場面では、「自分の◯◯は相手の◯◯より優先されるべきだ」という論法が出てきていないか点検せよ ── それが「より上等」の徴候である。 - 自分が無能だ・下手だ・事態を悪化させると感じて手を引く場面では、その謙遜が「より下等」による正当化として機能していないか疑え。 - 慢性の自己欺瞞を検出したい場面では、思考ではなく感情に注意を払え ── もっと尊敬されていいはず/不当に扱われている/きちんと評価されていない/恨めしい(=より上等)、落胆する/嫉妬する/無力に感じる/諦める(=より下等)。 - 無力だと感じて諦めている場面では、その諦め自体が「自分は人より下等だと見なしている証拠」だと知れ。 - 誰かを助けたい気持ちが湧かない場面では、自分がその相手に対して「上等」または「下等」の嘘をすでに持ち込んでいないか確認せよ。 - 誰かの能力を評価する場面では、自己欺瞞に目を曇らされていないときのほうがはるかに正確に評価できると知り、まず自分の見方を点検せよ。 - 技能の優劣と人間としての価値を混同しそうになった場面では、両者を切り離せ。ある技能で優れていることは、人としての上下を意味しない。 - 誰かが辛い出来事に遭った場面では、「何をいっていいかわからない」を理由に黙るな。その気後れは自分に焦点が向いている徴候である。 - 自分が行った正当化を認める場面では、それが簡単ではないと知り、実例として言語化せよ(トムの高校時代の告白がその実践例)。 ## 根拠となる研究・事例 - **"物" 扱いの三分類の再提示**: 箱に入ると他の人びとを大きく違う三つの意味で "物" と見なす ── ①自分が欲しいものを得るための道具 ②自分の行く手を阻む障害物 ③自分とはまったく無関係な物。→ 示唆: 6章の三分類がここで再確認され、10章以降の議論の基盤になる。 - **レジ係とおべっかの例**: スーパーのレジ係を食べ物をスキャンするロボットのように扱う。心にもないおべっかで誰かにへつらう。→ 示唆: 一見無関係な二つの振る舞いが、同じ根("物" 視)から生じている。 - **トムの接客経験**: 父が小さな店を持っていて、カレッジに進む前はそこで働いていたが、たいていはバックヤードの仕事だった。→ 示唆: 接客の当事者経験の有無が、"物" 扱いへの感度を分けている。 - **アナのレストランのホール係経験(高校時代)**: 「経験したなかでは、最高で最悪の仕事でした」。人を観察するのは楽しく、常連さんのなかには知り合えてよかったと思える人もいた。一方で、客のなかには失礼で不適切なことをいう人もいた。マネージャーやホール係のリーダーに訴えたが、「そういうものなんだから。有り難いと思ってチップを頂戴しておけばいいんだよ」みたいなことをいわれるばかりだった。→ 結果: アナは顔にさっと赤みが差し、手がテーブルの縁をいじり始める。「ちょうど娘が給仕係のアルバイトに応募したところなんですが、あの子がそんな目に遭うなんて、まっぴらごめんだな」。→ 示唆: 訴えを受け流す管理者の姿勢自体が、"物" 視の連鎖を組織的に再生産している。 - **ケイトの断定**: 「職場で差別やハラスメントにあって当然という人はどこにもいないし、それをいえば、どんな場面であろうと、そんなことは許されません」「そういう不当な扱いの根っこには、必ず相手を "物" と見なす姿勢があるものなの」→ 示唆: 本書の理論が、ハラスメント問題の説明枠組みとしても提示されている。 - **テオの「より上等」による正当化**: 妻に対して内向きになっていたとき、自分が彼女より上等だと思うことで自分を正当化していた。「翌日には重要なことをしなければならず、わたしの仕事は家族にとっても重要なんだから、明らかに、わたしの睡眠は妻の睡眠よりも優先されるべきだ」「自分にはいっさい睡眠を邪魔されない権利があって、それを行使できないのは妻が悪いからで、でも妻にはそんなことをする権利はないはずだ!」→ 示唆: 権利の言語が、正当化の主要な材料になっている。 - **図5「歪んだ見方」(「より下等」パターン)**: **わたしは自分をこう見ている**: 赤ん坊の世話は苦手/何をしたらいいかわからない/事態を悪化させてしまう。**わたしは妻をこう見ている**: どっちにしても起きる/何でも完璧にできる/彼女の世話の上手さを見せつける。→ 示唆: 同じ一つの状況(息子が泣いた夜)が、正反対の自己像でも同じ結論(ベッドから出ない)に到達する。 - **図6「「より上等」と「より下等」に伴う感情」**: **自分を他の人より上等だと見ていると…**: もっと尊敬されていいはず/不当に扱われている/きちんと評価されていない/恨めしい。**自分を他の人より下等だと見ていると…**: 落胆する/嫉妬する/無力に感じる/諦める。→ 示唆: 慢性の自己欺瞞は思考ではなく感情から検出できる、という実務的な検出法。 - **トムのピエールの再解釈**: 「うへ」「これはつまり、わたしがピエールを助けようという気にならなかったのは、すでにわたしが彼に対して箱に入っていたからだ、ということなんですね」。テオ「君はピエールが失敗するのを喜んでいたようだったからね。たとえそのせいで、自分のプロジェクトが損害を被ったとしても……」。→ 結果: トム「今になって振り返ると、筋が通っていなかったような気もします。ピエールが凋落するのを黙って見ていたせいで、プロジェクトはひどいことになりましたから」。→ 示唆: 箱の中では、自分の利益を損ねてでも相手の失敗を望むという非合理が成立する。 - **トムの高校時代の告白**: 友達の母親が亡くなったが、なんと言葉を掛けていいのかわからず、すっかり気後れして何もいわなかった。「自分が何かいってもかえって友達を傷つけるだけだ、とかなんとか、そんなふうに自分に言い聞かせて。あのときは、自分のことしか考えていなくて、自分は人より下等だと思っていたんでしょうね」。→ 結果: テオ「実例を挙げてくれて、ありがとう。自分が行った正当化を理解して認めるというのは、必ずしも簡単なことではないから」。→ 示唆: トムが初めて自分から自己欺瞞の実例を差し出す転換点。 - **ケイトの技能と価値の分離**: 「わたしたちそれぞれに、人との関係や状況次第で、自分は人より上等だとか下等だと見なす傾向がある。でも、それはどちらも嘘。わたしたちは、ある技能に関しては、他の人より優れていたり劣っていたりするけれど、だからといって、人間としての価値に上下があるわけではない。それに、自己欺瞞に目を曇らされていないときのほうが、はるかに正確に人の能力を評価することができるものなの」→ 示唆: 「人を評価するな」ではなく「歪んでいない方が評価は正確になる」という実利的な論法。 ## キーワード - **慢性の自己欺瞞**: 己の「自分への裏切り」を正当化するのに使えるような偽の自己像を持ち歩くこと。新しい状況にも上等/下等の嘘を持ち込む。 - **より上等 / より下等**: 慢性の自己欺瞞が取る二つの形。表向き正反対だが同じダイナミズムを支える。 - **「より上等」に伴う感情**: もっと尊敬されていいはず/不当に扱われている/きちんと評価されていない/恨めしい。 - **「より下等」に伴う感情**: 落胆する/嫉妬する/無力に感じる/諦める。 - **偽の自己像**: 慢性の自己欺瞞の実体。13章「自分にとっての『自己像』」で本格展開される。 - **図5**: 歪んだ見方。**図6**: 「より上等」と「より下等」に伴う感情。