# 第一夜 トラウマを否定せよ ## 中心主張 アドラー心理学は「過去の原因が現在を決める」という原因論を否定し、「人は目的を達成するために現在の状態を選んでいる」という目的論に立つ。トラウマは存在せず、経験それ自体ではなく経験に与える意味によって人は自らを決定する。ゆえに人はいつでも変われるが、変わらないでいるのは「変わらない」という決心を自ら下し続けているからであり、必要なのは環境でも能力でもなく幸せになる勇気である。 ## 実践指針 - 「過去のあの出来事のせいで今こうなっている」と説明したくなったら、その説明を止めて「いま自分はどんな目的のためにこの状態を選んでいるのか」と問い直せ。 - 引きこもり・不安・症状など動けない状態にあるときは、原因を掘るのではなく、その状態が自分にもたらしている利得(注目を集める、外に出ずに済む、傷つかずに済む)を書き出せ。 - 怒りが込み上げたときは「怒りに駆られた」と考えず、「相手を屈服させるという目的のために怒りという道具を出し入れした」と捉え直し、言葉で説明する手段に切り替えよ。 - 「性格だから変えられない」と言いそうになったら、性格ではなくライフスタイル(世界観・生き方)と言い換え、選び直しの対象として扱え。 - 変わりたいのに変われないときは、「変わることの不安」と「変わらないことの不満」のどちらを自分が選んでいるかを直視せよ。 - 「もしもXであれば」という可能性の中に留まりたくなったら、応募する・告白する・提出するなど、結果が出る行動を実際に取れ。可能性を残すのは変わらないための言い訳である。 - 誰かに答えを教わろうとする場面では、他者から与えられた答えは対症療法にすぎないと考え、対話を通じて自分の手で結論を出せ。 - 「今日から生き方を変える」と決めるとき、過去の総括も未来の見通しも不要と考えよ。人生を決めるのは「いま、ここ」だけである。 ## 根拠となる論理・たとえ話 - **引きこもりの友人**: 外に出られないのではなく「外に出ない」という目的が先にあり、その目的を達成する手段として不安や恐怖という感情をつくり出している。親の注目を集め、腫れ物のように丁寧に扱われるという利得がある。 - **喫茶店で怒鳴った話**: ウェイターに服を汚され大声を出したのは、怒りに我を忘れたからではなく、相手を屈服させるという目的のために怒りを捏造したから。証拠に、母親は娘と怒鳴り合っている最中に電話が鳴れば瞬時に丁寧な声色に戻り、切ればまた怒鳴り出せる。怒りは出し入れ可能な「道具」である。 - **風邪と医者**: 「昨日薄着をしたから熱が出た」と原因だけ説明されても患者は満足しない。原因の指摘や「あなたは悪くない」という慰めで終わるのが原因論の典型で、必要なのは今どうするかの処置である。 - **赤面症の女学生**: 告白できずにいる自分への言い訳として赤面症を必要としていた。「赤面症さえ治れば」という可能性の中に生き、振られたときの保険にしている。だから哲人は症状を治さない。 - **Yさんになりたい青年**: 別人になりたいのは、いまの自分を捨てて「もしもYであれば」という言い訳の中に逃げたいから。アドラーの言葉は「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」。 - **ソクラテスとアドラー**: どちらも自ら著作をほとんど残さず、対話によって相手が自ら答えに到達することを重視した。答えは誰かに教わるものではなく自らの手で導き出すもの。 - 過去はタイムマシンでは変えられないが、過去の出来事に「どんな意味づけをするか」は現在の自分が決められる。だから過去に支配されない。 - アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり哲学である。感情の存在を否定するのではなく、感情に支配され動かされる存在ではないと主張する。 ## キーワード - **目的論**: 人の行動には過去の原因ではなく現在の目的があるとする立場。「不安だから外に出られない」ではなく「外に出ないために不安をつくり出している」。 - **原因論**: 過去の原因が現在の結果を規定するというフロイト的な立場。行き着く先は決定論とニヒリズムだとアドラーは退ける。 - **トラウマの否定**: 「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する」(アドラー)。過去の経験の影響がゼロという意味ではない。 - **ライフスタイル**: 人生における思考や行動の傾向。狭義には性格、広義には世界観・人生観を含む。おおよそ10歳前後に自ら選び取ったものであり、いつでも選び直せる。 - **感情の捏造**: 怒りなどの感情は、目的(相手を屈服させる等)を達成するための手段として自らつくり出されるという考え。 - **人生の嘘**(本夜では萌芽として登場): 「もしもXであれば」という可能性の中に生き、変わらないための言い訳を自分に与える態度。 - **勇気づけ**: カウンセリングの中心的アプローチ。症状を取り除くのではなく、「いまの自分」を受け入れ前に踏み出す勇気を持ってもらう働きかけ(詳細は第二夜以降)。 - **アルフレッド・アドラー**: オーストリア出身の精神科医。1900年代初頭に「個人心理学(アドラー心理学)」を創設。フロイトの弟子ではなく対等な共同研究者であり、学説上の対立から袂を分かった。デール・カーネギー『人を動かす』やコヴィー『7つの習慣』に思想が色濃く反映されている。 ## この章の到達点 青年は「トラウマなど存在しないし、環境も関係ない、なにもかもが自分のせいだ」と断罪されているように感じて反発したまま第一夜を終える。哲人は断罪ではなく、「人生を決めるのは、いま、ここに生きるあなたなのだ」というアドラーの目的論の意味だと説く。青年は納得できない点を持ち越し、翌週また訪ねることを約束する。