# おわりに 一九八七年秋——ハート・オブ・ダークネス **中心主張**: 著者は「文章を書くという営為に飽きたことは一日もない」が、行き詰まったことはある。それは記者一年生の秋、川崎支局で一カ月間「街ネタ」が一本も書けなかったときだった。そのとき支局長がしたのは説教でも指導でもなく、一緒に一時間以上、街を歩くことだった。書けなくなったときにどうするか——歩くこと。見ること。小さなことでいい、なにか書いてみること。生きてみること。三十三年後のいまも、答えはだいたい同じである。 **実践指針**: - 書けなくなった場面では、**歩くこと**。足まかせに、目的なく街を歩く。 - **見ること**。菊の品評会、寺のいちょう、ラブホテルのカメラ——立ち止まって気づいたことを、つぶやくレベルでいい。 - **なんでもいい。小さなことでいい。なにか書いてみる。** - そして、**生きてみること**。 - 書けない人に対しては、**説教も指導もするな**。ただ一緒に歩き、飯を食い、できれば長所(「おまえは筆がやわらかい」)を一つ言ってやる。 **根拠となる事例・考え方**: - 1987年秋、川崎支局(全員で六人)。毎朝毎晩警察署に通い、交通事故や火事の原稿を書くのに汲々としていた。新人記者の重要な任務である「街ネタ」——動物園で猿が赤ん坊を生んだ、変わり種のあんパンが人気だ等々——の書き方がまったく分からなかった。**というより、なにが「街」であり、なにが「ネタ」であるかが分からなかった**。本書の言い方では「世界の切り取り方が分からない」ということだ。 - 一カ月ほど街ネタが一本も書けない。上司や先輩に怒られるわけでも心配されるわけでもない。ただ自分だけ、なんとなく意気が上がらなかった。 - ある夜、仕事を終えた支局長に「ちょっと散歩に行こうか」と誘われた。二人で支局の周りを足まかせに歩いた。安っぽい飲み屋が並びパチンコ屋の音が響く商店街、客引きが寄ってくるソープランド街、娼婦の立つ薄暗い通り、少し抜けると静かな住宅地。 - **なにかを教えてくれるのではない。ただ、歩いた。** 時折立ち止まり、「お、菊の品評会をしてるな。秋も深いな」「この寺のいちょうは見事だよ。ぎんなん拾いに、けっこう人がくるんじゃないか?」「最近のラブホテルには、みんなカメラが設置してあるんだなぁ」とつぶやいている。著者に言っているのか独り言なのか分からない。「はあ」とだけ力なく相づちを打ち、ついていく。 - 一時間以上歩いたあと居酒屋に入り、晩飯をごちそうしてくれた。説教はされなかった。逆に「**おまえは筆がやわらかい**」と言ってくれた。社会部時代の旧知の映画宣伝会社にもらったという無料鑑賞チケットを一枚くれた。映画は「遠い夜明け」だった。 - 翌日から県版に菊の香りやぎんなん泥棒の記事が小さく載り始めた——**が、「そこからいままで一瀉千里、わたしは本を書けるまでになったのである、などということはない」**と著者はすぐに否定する。変わったのは方法ではなく、書けなくなったときの身の処し方だけだ。 - 支局長・**川上湛永**さんへの謝辞。もう何十年も連絡をとっておらず、ご存命かも分からない。「探してみようと思う」。 **謝辞に現れる人物と、そこで語られる文章観**(本編の要点の再確認になっている): - **小島章夫**さん——「会社なんか飛び出してフリーマーケットで勝負しろ」「おまえの文章は変拍子だ」。 - **西村隆次**さん——著者より口の悪い悪文ハンター。テクニックより「文章とはなにか」を教わった。**文章とは、品格である。** - **山口進**さん——盟友と呼びたい年若の友人。ひとかどの文章家になったつもりでいた著者に、デスクとして冷や水を浴びせた。**文章は、完成しない。テクスト—外はない。** - **高久潤**さんをはじめとする私塾の塾生たち——大笑いしながら、ときに著者の罵声を浴び、文章修練をともに続けている。 - デザイナー **新井大輔**さん——まったく思いもしない方向から弾を撃ってくる方。表紙・本文デザインの真新しさ、スタイル(流儀)に心底驚かされた。ベン・シャーンの版画集『リルケ「マルテの手記」より 一行の詩のためには…』の作品を装丁に使えたのは望外の喜び。 - 編集者 **田中里枝**(通称「Lily」)さん——本書の企画も構成も、「**気の狂った実用書**」というアイデアも、常体・敬体を書き分けるサーカス的文体も、すべて田中さんの発案。「おれたちはプロの表現者なんだ」と私塾でうそぶいていた著者が、その編集者としてのプロフェッショナリズムに「感心するというより放心した。ここまでするのか。まだまだ、甘かった」。 - 結び——「**書き上げたいま、また、ゼロから出直すつもりだ。**」/二〇二〇年秋 稲刈りと猟期の始まりを控え 近藤康太郎 **キーワード**: - **ハート・オブ・ダークネス**: 本節の副題。文章に行き詰まった時期を「まるで夜の闇を歩くよう」と表した比喩。 - **街ネタ**: 事件事故以外の小さなニュース。書けなかったのは技術の問題ではなく「なにが『街』でなにが『ネタ』か」=世界の切り取り方が分からなかったから。 - **歩くこと。見ること。**: 書けなくなったときの著者の処方箋。三十三年間変わっていない。 - **気の狂った実用書**: 編集者・田中里枝が立てた本書のコンセプト。常体と敬体を書き分ける「サーカス的文体」もその設計による。 **巻末について(要約対象外)**: この「おわりに」のあとに、**出典一覧**(太宰治、夏目漱石、田村隆一、ジャック・デリダ、正岡子規、町田康、フロイト、チェーホフ、モーパッサン、森鷗外、ラカン、リルケ、村上春樹 *Hear the Wind Sing* ほか、および朝日新聞・読売新聞・西日本新聞の記事)、**参考文献・ウェブ**(柄谷行人ほか『必読書150』、桑原武夫『文学入門』、渡部直己『私学的、あまりに私学的な』、京都大学文学部西洋文化学系編「西洋文学この百冊」ほか)、**著者近影・著者略歴**(1963年東京・渋谷生まれ、慶應義塾大学文学部卒、1987年朝日新聞社入社、川崎支局・学芸部・AERA編集部・ニューヨーク支局を経て2017年から朝日新聞編集委員・日田支局長。大分県日田市在住)、**奥付**(CCCメディアハウス、2020年12月15日発行、装幀・新井大輔)が続く。いずれも要約の対象外。