# 第24発 書く、とは——わたしは、書かなければならない。 **中心主張**: 会議も試験も金もうけも関係なく、それでも書かずにいられない人だけがここまで読み進めてきた。ではなぜ書くのか。悲しみは言葉にできないが、言葉にしようとした瞬間に人は自分を客観視し、悲しみは体から遊離して「自分は泣くことができる人間だ」といううれしさだけのうたに変容する。書くことは過去を変え、自分の置かれた世界を承認し、運命を甘受する営みである。だから出し惜しみするな。有り金は全部賭けろ。 **実践指針**: - **悲しみがやってきたら、急いでうたわなければならない**。悲しみはそう長続きしない感情だから。 - 言葉にできない感情に出会った場面では、それでも**言葉にせよ**。「悲しい」で表せない悲しさを別の言葉に結晶させようとしているそのとき、人は同時に悲しめない。悲しさをいったんわきに置かなければ、言葉は現前しない。 - 書くとき、**だれに向かって書くのかを定めろ**。著者の場合は「山奥で道路工事をする、還暦を過ぎたおばあさん」——本を読まないと分かっている相手に「向かって」書く(「〜のために」ではない)。 - 本を書く場面では、**第一稿からたいてい六回、多いときは九回、書き直す**。書き損じた紙が背後にうずたかく積み上がる。 - その紙くずの山から大きな波・うねりが感じられるようになったら、**その波に乗って、押されて、書かされる**。 - 自分の力量では乗れない、巻き込まれて転倒し溺れ死ぬのではないかと恐怖を感じる大波が来ても、**とりあえず、立つ**。乗れるか乗れないかは分からない。考えない。ただ、立つ。 - **自分のなかの〈なぜ〉が止まるまで、考え抜け**。空っぽになるまで。頭から逆さに振っても土瓶のかけらも出てこない状態、ロープが伸びきり、バネに復元力がなくなった状態まで。 - **「これは次回書く機会にとっておこう」としてはいけない**。いま、出せ。すぐ、出せ。全部、出せ。有り金はすべて賭けろ。すべてを出し切った者にだけ、次の勝負の出場通知が来る。 - 出し切ったあとは、波に乗れたのか溺れていたのか、**書いた当人には分からなくていい**。よしあしは読者が、後世が判断する。自分は立った、いや立とうとした——その記憶が体に残ればいい。 - 解決できない、しかし解決しないと前に進めない問いを抱えたら、**その問いに答えようと試みろ**。それが究極的には〈書く〉ということの本質だ。問いが大きいほど波は大きくなり、溺れ死ぬ蓋然性が高まる。 **根拠となる事例・考え方**: - 冒頭は田村隆一「帰途」——「言葉なんかおぼえるんじゃなかった/言葉のない世界/意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかったか」。著者はこれを反語として読まず、**言葉なんか覚えるから、人の悲しみが分かってしまう**と受け取る。文章を書かずに済む人は幸いである、皮肉でも反語でもない、と断る。 - 著者の最初の記事(1987年、川崎支局)——団地で男子高校生が飛び降り自殺した、県版のいちばん下の目立たない記事。現場へ急行し、写真を撮り、近所を聞き込み、高校生が昇った階段を同じように昇り、手すりから身を乗り出した。風が、吹いた。翌早朝、一面も読まずまっさきに県版を開いて自分の記事を読んだ。遺族が慰められたわけでも自殺が減るわけでもない、なんの役にも立っていない、自分以外だれも読まなかった文章。それでも読んだ瞬間、**「自分が自分でなくなったような感覚。外から自分を眺めているような感覚」**がした。興奮でも喜びでも達成感でもない。記事はスクラップし、いまも持っている。 - 藤原定家「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋のあきの夕暮」——「ない」と書くことで、さびしく貧しい夕景に花が咲き紅葉が輝き、冬が来てまた春が来る再生のありさまが眼前に現前する。 - 母親の不在に泣く幼子が「お母さん……。」と言葉にするのは、**言葉が母だから、言葉によって母が現前するから**。ちなみに「お母さん……。」は立派な文章である(第2発)。 - 「ながく」は「嘆く」の転用。古来、人は地面を踏みならし、大声を出し、涙を流しながら、言葉を長く伸ばして嘆いた。それが三十一文字の和歌になり、十七文字の俳句になる。 - 藤原高子「雪のうちに春はきにけり鶯のこほれる涙いまやとくらん」。 - **「あれは、おれだ」**——著者は2014年に東京から大分県日田市の山奥に移住した。九重連山近くの交通量の少ない工事現場で、還暦を超え七十歳にもなろうかというおばあさんが腰を曲げ「ネコ」と呼ばれる手押し車でアスファルトの破片を運んでいる。年金だけでは食えないのか、旦那さんが体を壊したのか、難病の子供がいるのか——知らない、その話ではない。「あれは、おれだ」。彼女はあり得べきわたしの姿だ。文章を書いて生きる人間になれたのは自分の努力などではなく、偶然としか思えない力が働いた幸運である。その確信が手のうちにありありと在る。 - 著者の実家(東京)は貧家であり、肉体仕事に疲れて帰ればせいぜい地上波テレビを見て泥のように眠る生活を知っている。**それでも、彼、彼女に向けて書く**。 - 私塾の卒業生(九州のブロック紙記者)からの礼状——国境近くの離島の、中心部を離れた僻村の出。文章で生計を立てる人間は周りに誰もいなかった。会社内でもコンプレックスにさいなまれる。しかし文章を書くという行為を日々の「お仕事」とは思えなくなった。**短い一生を賭して挑む、われとわが身を〈企投〉する営み**として書く、いまはそう思える、そのための勉強を続けている、とあった。 - 与謝野晶子「よしあしは後の岸の人にとへ われは颶風にのりて遊べり」。 - 章末の**〈なぜ〉の連鎖**——なぜ文章など書くのか。悲しいからだ。なぜ悲しさを変容させたいのか。救われたいから。なぜ救われたいのか。自分を救い、運命を甘受し、過去を変え、また明日も生きていかなければならないから。なぜ生きていかなければならないのか。愛さなければならないから。なぜ人は人を愛さなければならないのか。自分を愛せる者だけが人を愛せる。救われる者は、救う者だ。自分が救われることでしか、人を救えないから。……そして「もう書いているではないか。それは……。**賽は投げられた。**」で本章は閉じる。 **キーワード**: - **うれしさだけのうた**: 悲しみを言葉にしようとする瞬間、人は自分を客観視し、悲しみの涙は自分から遊離する。残るのは「自分は泣くことができる人間だ」といううれしさだけになる。 - **あれは、おれだ**: 山奥で工事をするおばあさんに自分のあり得べき姿を見る態度。書き手が「だれに向かって書くか」を定める根拠。 - **〈企投〉**: われとわが身を賭けて投げ出す営み。書くことを「お仕事」から区別する言葉。 - **世界を承認する**: 書くことによって過去も変えられ、自分の置かれた世界を承認し、過去の自分を救い出し、運命を甘受できる。 - **ダイスをころがせ**: 出し惜しみせず有り金を全部賭ける態度。すべてを出し切った者にだけ次の波が来る。 - **現前する**: 言葉にすることで、そこにないものが眼前にありありと立ち現れること(「ない」と書けば花が咲き、「お母さん」と言えば母が現れる)。