# 第12発 語彙【道具箱・一段目】——増やすには逆に制限する。 **中心主張**: 語彙を増やす王道は、本を読み、辞書を引くことだ。ただし辞書は意味を確認するために引くのではなく、発想を変えるために引く。さらに逆説的だが、語彙を増やす最も有効な筋力トレーニングは〈なにかをやめてみる練習〉——便利な言葉を自分に禁じることで、別の言葉を探さざるを得なくなる。そして最初はすべて他者のまねであり、憑依され、愛し抜いた末に頭の底に残った語彙が、いずれ自分の思想になる。 **実践指針**: - 語彙を増やしたいなら、本を読め。抜き書きも必須だが、読むことだけでは不足だ。 - 辞書を引くことを、日常の儀式にせよ。著者はパソコンの電源を入れるとまず辞書を立ち上げる(国語辞典四つ、漢語辞典三つ、古語辞典二つ、百科事典、用語辞典、語源辞典と、二十冊以上の辞書ソフト)。書いていて、読んでいて、少しでも意味が不確かならば、迷いなく即座に引く。 - 辞書は意味の確認のためだけに引くのではない。**発想を変えるために引く**。 - 類語辞典(シソーラス)は必携だが、上級者向け。言い換え言葉・代用する言葉を探す辞書として使ってはいけない。「美しい」を「かわいらしい」「まぶしい」「匂やか」「目も綾な」に置き換えるだけの使い方は間違い。 - 「やばい」「大変だ」のような万能語を感じたら、そこで止まらず類語をたどれ。「やばい」→類語「悪い」「危険」「疑わしい」「贋物」「大変だ」→「大変」で類語を探す→「常ならず」「重要」「厄介」「頗る」「椿事」「多事多難(人生)」……と焦点を移していく。「厄介」を引く→「面倒くさい、大儀、煩わしい……」→「億劫」に行き当たる。 - 語源まで遡れ。「億劫」は仏教用語で、非常に長い時間を意味する。「億」には心安らかという意味もあり、「劫」は刀・力で脅迫するという原義(白川静『字統』)。「刹那」の反対語。ここまで来ると「これは、億劫な映画である」と書き始めたほうが、考え方の方向性を変えられる。 - 辞書は「言葉のエフェクター」だと考えよ。ジミ・ヘンドリックスがギタープレイだけでなくエフェクターを始め電子機器を使いこなす名手だったように、ものの見方を〈変調〉させるために使う。 - 好きな作家の作品は全部読め。繰り返し読む。全集を買い、まるで散歩の道筋やらなにやら、とにかくまねしたくなるところまで惚れ込む。**憑依される**。 - 憑依され、まねをして、無残に失敗して、また精緻にまねをする。それを、何人かの作家に対して繰り返す。当然、語彙の道具箱も自然に増えてくる。最初からオリジナルな語彙、オリジナルなスタイルを持っている作家など、いない。 - 自分を〈なくす〉。そうして初めて、自分が〈できる〉。ふだんの生活では使わない、自分のものではなかった言葉を、使いたくなる。それが原稿用紙に現れる。 - 語彙を増やす筋トレとして、便利な言葉を自分に禁じよ。著者は「なになに的」を一年間まったく使わないと決めた。新聞のように字数が極端に制限されるメディアでは「なになに的」は非常に便利で、たいへん難しい訓練だったが、以来「よくよく考えるようになった」——その言葉でなにを表そうとしていたのか。言い換えたり、そもそもその文章を書くことじたいをやめたり。おのずと語彙が増えていった。 - 流行語を疑え。世間で流行している言葉を使うことは、自分のなかで想や感情を生起させることではなく、自分のマインドとハートとを世間に売り渡すことだ。**言葉は、自分の考え、感情を表す道具ではない。むしろ言葉が、自分の思想や感情を生起させる**。順番が逆なのだ。 - 「超」も「やばい」も「○○的」も「○○性」も「○○化」も、シュレッダーにかけてしまえ。なにもかもなくしてみる。世間を、流行を、自分をも、なくしてみる。なにもかも、なくして、さてそこで、まだなにか言いたいことは、考えられるか。**文章を書くとは、無から有を生みだす魔術のことである**。 **根拠となる事例・考え方**: - 「やばい」の万能さの実例。ラブロマンス映画を観て「やばい」、ユーチューブのお笑い動画を見て「やばい」、悲恋のマカロンを食べて「やばい」。泣ける/笑える/おいしい/全然意味が分からない、どんな状況も「やばい」の一言で伝えられる。便利だが、これでは語彙は増えない。日本語では「どうも」が同様(朝でも昼でも夜でも、出会いでもお別れでも、感謝も謝罪も伝えられる)。ドイツ語の「Bitte」も同様。 - 著者の辞書環境。デジタル辞書は「面倒でないから即座に引ける」ことが最大の利点。『広辞苑』でも『新明解国語辞典』でも『明鏡国語辞典』でもいい。『日本語シソーラス 類語検索辞典』は上級者に断然おすすめ。 - ギタリストの学び方との類比。好きなギタリストのリフやソロパートをまねる。楽譜通りに弾ければそれで終わりではなく、「この音はチョーキングなのかスライドなのか」「ピッキングがダウンなのかアップなのか」を確定しようとする。ピブラートの細部を、耳を澄まし、何度も繰り返して聴く。つまり、憑依されている。 - 著者の憑依体験。「畢竟」「淵源」「牢記」は大西巨人に憑依されて自然に現れる語彙。「莞爾として」「異にする」「謂いである」は太宰や鷗外に耽溺して身についた語彙。「常に、すでに」「toujours déjà」は海外の作家(ブランショ)に魅入られて得た語彙。漱石、鷗外、太宰治、プーシキン、チェーホフ、中島敦……。 - **「自分なんていうものは、他者の思考の集積なのだ」**。他者に耕された土地なのだ。カルチャー(culture)とは、耕されるという意味だ。広く、深く、耕す田の実りは、豊かだ。 - 中桐雅夫「嫌なことば」の引用——「何という嫌なことばだ、『生きざま』とは、/言い出した奴の息の根をとめてやりたい、/知らないのか、これは『ひどい死にざま』という風に、/悪い意味にしか使わないのだ、ざまあ見ろ!(略)/『なになに的』を使わずに本を一冊書いた人もいる、/政治家の『前向きで』など、使用禁止は当然だ、/評論家の『ある意味では』をやめて、/どんな意味でかを、はっきり書くようにしたらよい。」 - 古代ギリシャでは、弦楽器に弦を一本増やした劇作家を追放した。ミケランジェロは彫像を彫るのに、より大きく、固く、彫琢の困難な大理石を求めた。**語彙を増やすには、言葉を制限することだ**。 - 斎藤緑雨『あられ酒』——「汝土分の面目をおもはば、かの流行言葉といふを耳にすとも、決して口にする勿れ」。 **キーワード**: - **辞書は言葉のエフェクター**: 意味確認ではなく、ものの見方を〈変調〉させる装置として辞書を使う考え方。 - **憑依**: 好きな作家に頭を乗っ取られ、語彙を乗っ取られ、まねをすること。オリジナリティに至る唯一の道。 - **相互承認の実現**: 憑依され、自分を〈なくす〉ことで初めて自分が〈できる〉という逆説。 - **なにかをやめてみる練習**: 便利な言葉(「なになに的」「やばい」「超」「○○性」「○○化」)を自ら禁じる語彙増強法。 - **言葉が思想を生起させる**: 言葉は思想を表す道具ではなく、思想を生む側だという転倒。だから流行語を使うことは自分を世間に売り渡すことになる。 - **カルチャー(cultivate)**: 耕されること。自分とは他者に耕された土地であるという自己観。